読書感想文 魔の山 上
魔の山 上
トーマス・マン 1924年
トーマス・マンは、ドイツの作家でノーベル文学賞受賞者である。
あと、たった30ページ。やっと面白くなってきたショーシャ夫人とカストルプが、過去のヒッペとのやりとりを繰り返す場面の前で。
眠い。ひたすら眠い。
さて、まず、魔の山は、20世紀の教養文学の一つである。メルヴェルの白鯨やフローベールの感情教育にも同様の思考が錯綜する。
というのは、魔の山は、ハンス・カストルプがサナトリウムであるベルクホークにいる人々から影響を一部で受け、一部で影響を全く受けずに成長していく物語であるからだ。
物語の語り手はハンス・カストルプであるように見えて、神であり、第三人称が使用されている。
その中で、カストルプは単純な賢さの持ち合わせていない男性なのだということが明記されている。
サナトリウムは、ドイツの山の連なる都会から離れた場所に建設されているようで、このサナトリウムに居住することが、結核の治療に結びつくと信じられている。そう、信じられているという表現が正しく、現代医学からすれば、それは結核治療とはならないのではないかと考えられる。
結核について、簡単に細菌学に則って説明をする必要があるが、結核菌は抗酸菌と呼ばれる菌で、通常の抗生剤で死滅できる菌である黄色ブドウ球菌などとは異なる壁構造をもつ。これは、つまり、戦時にフレミングにより発見されたペニシリンの効果がない菌ということを裏付けている。ペニシリンというのは、細菌の細胞壁を破壊する物質であり、一般細菌と細胞壁が異なる結核菌には全くの無効である。
結核菌は、空気感染によってヒトからヒトへ伝染する。基本的には、口から気管支、肺を通して人体内に定着する。つまり、結核菌は空気を好むのだ。
肺の機能は、酸素交換と二酸化炭素の排出を大きな目的としている。それ以外にもホルモン産生の機能もあるが、重要な問題ではない。
そして、この酸素というものは、血液中に存在する赤血球のヘモグロビンとの結合・解離により肺で交換され、各組織で再分配される。すなわち、空気が行き来している状態だけではなく、血液が行き来する状態が非常に重要だということだ。その病態の破綻の一例が肺血栓塞栓症であり、気胸である。
門外漢なので、詳細には知らないが、人はどれほどの肺の機能を損失すると生命にかかわるのだろうか。
当時、1900年代には結核は死の病であったのか。僕は、読書と勉強を重ねることによって、そこに疑問を生じるようになった。現代2017年の時点で、細菌感染症の基本はcrescent, decresentであり、治療をしなければ増悪し、治療をすれば改善するという概念が一般的、基本的、十分に認知された概念である。しかし、そもそもその治療法がない時、なぜ、結核菌が人類を駆逐することができなかったのだろうか。いや、それ以外の菌にしても同様である。もちろん、感染力が弱いという問題もあろう。しかし、実直なヨーアヒム、敬虔な人文学者であるセテムブリーニ、そして特に人生に不安の抱いてなかった工学者であるハンス、若くして亡くなったカーレン・カールシュテット。いや、カーレン・カールシュテットは例外だろうか。母親が結核保菌だったことを考えると、幼少の時から結核に晒されてきたのだろうと考えられるから。ともかく、わかく免疫状態に問題がなさそうな彼らが容易に病気に罹患している事実から考えると、結核は自然治癒する可能性を秘めていたのではないかということだ。というよりも、保菌状態になり得たということ。どこに?隔壁を伴った内部構造にか。その内部構造には酸素がいかず、結核菌は死にはしないながらも増殖せず、数十年も生き長らえさせる事ができていたのだろうか。
というようなことを頭に思い浮かべながら、この物語を読み進めるわけだが、そもそも、この魔の山での結核という媒介は所詮媒介に過ぎず、人生についての苦悩・時間についての苦悩を感じさせるただただ媒介に過ぎない。すなわち、それは結核でなくても物語は成り立つ。
にしても、咳の描写 p31
“まるで喜びも温かみもない咳、まともに押し出されてくるのではなくて、分解した有機体の粥の中をぞっとするほど力なくかき回す音としか言いようのないものだった”
これは、その現場をじかに見たよりも詳細で的を得ている。僕ら医師よりも表現が的確である。
書き記すことなど不可能に近いくらい、魔の山には教養が詰まっている。
時間に対する見方の論点。
病気について
音楽のなしうる所業について
愛と純潔の対立(p208)
死について
生理学・解剖学・胎生学・遺伝子学について(p508)
多彩な論点が紹介される。本当は医学など以外のテーマも多彩に記されていたのだろうが、僕が医学者だからか、そこにばかり注目がいった。これは、一つの偏見であり、そして、人間に備わった残念な機能である。
細胞が特化してそれだけの機能を獲得していったその経過と同様に、文明が進化するにつれ、身の回りのことほとんど全てに責任を持たず、専門的に限りなく実用的でないことだけに特化した僕ら現代人と同様に、ものごとを一つの側面からしか見ることができなくなっているのだ。
この悲しい側面はどんなに用心しても解決される事象ではないと僕は考えている。多面的という文言で曖昧に処理される物事は、二面なのか3面なのか果たして二十面なのか、それ以上の面を有しているのか、それは常に無限に拡張していく宇宙のようであり、その全ての面を考慮することが不可能であるが故に、その次に現れた言い訳、そう所詮言い訳として、重要な側面だけを考慮して見たという安直な結論に至るのである。誰がその重要な側面という側面を決定したかという最も重要と思われる問題には直視せず、論理的に構成したという発言により論理的でもない文章は高尚化される。それこそ、言葉が望んでいた支配かもしれないにも関わらず、僕らは言葉を使役しているという幻想にはまっている。
このように、僕は、この魔の山を通して思考を巡らすのであるが、実際の魔の山の物語自体にはほとんど進行がない。
ハンス・カストルプは相変わらずセテムブリーニの話を聞いているのか聞いていないのか曖昧な態度をとるし、変わったことは、ハンス・カストルプの滞在が伸びたことと、ハンス・カストルプがショーシャに恋慕の念を抱いていること、そして、数人の患者が死ぬか退院し、代わりに違う人が居住してきた程度で、それらは正直なところ、物語の進行に必要不可欠な要素ではない。
魔の山は淡々と日々のあり方について叙述、描写し、少しずつ彼らが変化していく様を描き出しているだけに過ぎない。
しかし、それこそが物語であり、変化に激しい映画は、単純に、各国から集まった愚鈍な観客の共感をどこかで得るようにと集められた陳腐な作品に過ぎないのであり、このように詳細に綿密に彩られた論述の方が価値があるのではないだろうか。
このことは感情や内面を吐露せず、表象されえた物事のみで真理を表現しようとしたロストジェネレーションとは対立する考えに見える。
ワルプルギスの夜は享楽の象徴であり、その場面において、カストルプは享楽的態度をとり、ショーシャ夫人との仲をもつ。
そして、一人では、生理学・解剖学の教科書を熟読し、深遠な知識欲を満たす。人間にはこのような多方面に向かう一見すると相対するような感情や思念が共在することが当然であり、それを見事に表現している。
さて、医学者として、魔の山に残された未解決問題がどこまで解決されたかを検討することは非常に有意義だろう。
そして、そのことを意識するとすでに100年経過したわけであるが、これほど、この100年の進歩はこれまでの人類史の中で飛躍の年であったと評価されるに値するとしても、まだ何も進歩していないことが見て取れる。
我々は我々を我々と表現するべきか私と表現するべきか、そのどちらが本質的かどうかには決着をつけることができていないのである。
我が家のハンバーグ レシピ
おはようございます!
こまりち。です。
「ままー。今日のご飯何ー?」
「今日のご飯は、あなたの大好きなあれよ」
「わーい!」
この記事では、子どもも大人も大好きな我が家のハンバーグのレシピをご紹介します。
冷凍保存もして、常備する一品です。
ハンバーグの歴史
美味しい美味しいハンバーグ。
初めてハンバーグの歴史について調べてみました。
j-hamburg.orgこんな境界があるんですね。日本ハンバーグ協会。
ハンバーグの歴史について、こちらの記事をざっくりまとめました。
ようこそ・・・”ハンバーグの世界”へ・・・
諸説ありますが、ハンバーグの歴史をさかのぼるとその原形は、いわゆる「タルタルステーキ」にたどり着きます。
初めのハンバーグ:タルタルステーキが生まれたのは13世紀ごろ
中央アジア(現在のロシアやモンゴルの辺り)のタタール族が作りました。
タタール族にとって馬も貴重な食料でした。しかし、馬肉は筋張って硬い。そこで、押し潰して、細かく切り叩く料理を開発しました。
「ミンチにする!」そうしてハンバーグができました。ぱちぱち。
自生している玉ねぎやチャービルなどの香草を混ぜ込んで肉の臭みを消す工夫もしていたという文献もあります。
タルタルステーキは16世紀頃にドイツ・ハンブルグに伝わります。
同じ頃、タルタルステーキを焼いて食べる料理が生み出されました。焼き上げることで、冷蔵庫のない時代の航海中の保存食として重宝したのです。
そして、この焼いたタルタルステーキが、「ハンブルグ風ステーキ」としてドイツ人と共にアメリカに渡ったとされています。このハンブルグ風ステーキ=ハンバーグ・ステーキこそが、現在のハンバーグのルーツとされています。
我が家のハンバーグ
ポイント
お肉をこねるときに冷たい状態を維持する ← 一番大事
玉ねぎを炒めた後に、冷やした玉ねぎを入れる
肉だねはツルッとした形にする
焼いている時には押し潰さない
材料
- 玉ねぎ(みじん切り)…1/4個分
- サラダ油…大さじ1
- パン粉…大さじ8
- 牛乳…大さじ6
- 牛豚合挽き肉…500ℊ
- 塩…小さじ1
- 溶き卵…1個分
- オーロラソース
- ケチャップ
- マヨネーズ
- お好みソース
レシピ
- フライパンにサラダ油を入れて馴染ませ、みじん切りにした玉ねぎを炒める。透明になってきたら、火を止め、粗熱をとっておいておく。
- パン粉は牛乳に浸す。
- ボウルに氷水を入れる。
- それより、小さめのボウルを重ねと載せ、ボウルを冷やす(かなり大きめのボウルで行った方が簡単です)。そこに、合挽き肉を入れ、肉の粒がなくなるまで練る。(冷たすぎて、うまくできないので、ヘラを使ってできる限り潰す感じにしています)
- 次に塩を加え、さらに練る(かなり適当にしても大丈夫そうです。混ざったなという感じまで行います)
- 炒めた玉ねぎと牛乳に浸したパン粉、溶き卵を加えてむらがなくなるまで練る(手で行っていると、手の熱が伝わって肉から油が出てきます。また、玉ねぎの粗熱が取れていないと同じように肉が溶けてしまいます。冷たい状態を維持したままがいいのですが、手が死にそうになるので、休み休み行っています)
- 肉だねを適当にとって、両手で投げ合うように10回ほど往復させ、中の空気を抜きます。ふっくらと丸みのある楕円に整えます。ネバネバしてだまにならない時には、パン粉を足すようにしています。
- フライパンを熱し、サラダ油をひき、ハンバーグを並べて中火で3分焼く(弱火よりも中火で、表面を焼く感じです。初めは注意深くしないと焦げます。また、まだ十分に焼けていないのにひっくり返そうとするとハンバーグの形が崩れので注意してください)
- ハンバーグの周囲が薄茶色になってきたら、ハンバーグをひっくり返し、両面に美味しそうな焼色がつくまで2分30秒~3分焼く(肉汁が流出してしまうため、両面を焼いたあとはハンバーグには触りません)。
- フタをして、弱火にして5分蒸し焼きにし、フタをしたまま火を止めて、5分蒸らして出来上がりです。火力がご家庭によって違うので、火加減は調整してください。我が家でも、初めて作ったときはは中身が生でした。
- 注意として、こねる時に肉だねが溶けた場合には焼いている時に油がたくさん出ると感じている。そうでなくても、油がたくさん出てきます。揚げハンバーグにならないように、適宜油は捨てるようにしてください。
- 何枚もハンバーグを焼いていると、焦げとか残り滓がフライパンについてきます。この焦げや残り滓をとっておかないと次のハンバーグにくっついてしまいますので、キッチンペーパーで取り除いています。
- 最後にハンバーグを焼いた時にオーロラソースを作ります。ハンバーグを取り出した後、ケチャップ・マヨネーズ・お好みソースを同量ずつ入れて混ぜます。量についてはかけたい量で調整してください。
参考にしているのは、こちらのレシピです。
本当に絶品にしたい方は、シェフ直伝のレシピを忠実に守るのがいいかもしれません。
この記事では、
読書感想文 ドグラマグラ
日本三大奇書というドグラ・マグラ。読むと精神がおかしくなるとかならないとか、意味不明な前振りをいただいていた。前々から読もうと思っていたが、読もうと思った原因は上記の記載であり、読んでいなかった理由はそれよりも読みたい本が多かったからだ。
BSLの実習で学生が読んだと聞いて、読もうと思った。常に人に影響を受ける人生である。
さて、内容についてだが、まず、一言伝えておきたいのは、読みにくくないということ。それから、割と普通の内容だったということ。この二点を伝えておく必要がある。
まず、結論からだが、特にこれといって。
多分読み終わるのに時間がかかりすぎたんだろう。冷血を読んだ時と同じで、前提というか内容を忘れている感じだった。そこの箇所だけでもまるで重要なシーンのようで教育的な昔の啓蒙本(レミゼとか魔の山とか)と違って、その一部分だけを読んでも重要な教育を受けている感じはない。というか、それは、自分自身の背景にあって、自分自身が神経内科、神経科学者であるから、精神とは?脳とは?を理解しようと勤めているせいで、そういった思想に抵抗ができているからだろう。それを具体例なく述べ連ねられてもポカンである。
心理遺伝というものについて、夢想しておく。本筋の結末については、わたしはそうだね、そういう結論になるよねと割と初期から思っていたが、どうなのだろう。
心理遺伝はあるのか?ドグラ・マグラが創作されて80年の時を経て、その答えは実は出ていない。もし仮に、今自分が考えている心理が遺伝するとすれば、口承伝達の中世と印刷が発明されてからの人間の発達の乖離についてどう説明するつもりだろうか。なぜ、心理は遺伝するにも関わらず発達しなかったのだろうか。遺伝の性質についても考える。現在の通説では、4つの核酸が30億個連なったゲノムというものがまず、始まりにある。そこから、どのタンパク質を作成するか、つまりはどこのゲノムを読み取るかが偶発的におきている。ゲノムには、目とか鼻とか肺とかいった器官形成のための情報がある。大きくは、人間で有る限り、これらの情報に大きな変化はない。ゲノムは所詮核酸で、その核酸は塩基、糖、リン酸から形成され、その組み合わせが膨大なだけである。しかし、そのほかの哺乳類との相同性を考えると、マウスゲノムは25億の塩基対で、ヒトゲノムの29億塩基対と比較して短くできている。遺伝子はほぼ人と同じである。人の中ではそれほど大きな違いは生じていないはずである。単純な身体的特徴を
難しい。また、今度・・・
さてと、改めて、ドグラ・マグラを考察する。九大精神科病棟7号室で目を覚ました自分の名前を忘れてしまった男性。彼に対して妻だと言い張るモヨコという女性。法医学者若林は、彼の記憶?を戻そうと順を追って説明する。
肝は、心理遺伝。潜在的に押し込められた先祖の意識?があることをきっかけに発露し、人を狂人たらしめる。天才精神科正木と間接的に若林はその理論を立証するために、呉一郎の母親との子供に意識の隔世遺伝を試みる。そして、妻を殺し、写生した呉青秀。妻の名前はモヨコといい、自分を妻と言い張るモヨコは呉青秀に殺された過去のモヨコの生き写しである。呉家の男児?は、呉青秀が描いた絵巻物を見ると、過去の心理が表出し、狂人となる。なんだか間違えて記憶しているような気もする。
荒唐無稽なストーリーを真実であるように描ききることが作家として重要であろう。無理やり世界はこうなっていると説明されると、私はいつも作者の都合により登場人物が動かされている物語と評価する。作者の都合で人々が動き出すと、物語の人の上にうっすらと糸が見え、さらに目をこらすと、奥に著者という神様が見える。そうなると物語は味気ないものとなる。性格を統一して描写することが物語の簡単な方法であり、それを第三者視点、つまり神視点で記載しておくと、もっと味気ない文章が出来上がる。「ファミリーレストランで働く彼女は、内向的でバイト仲間とは馴染めず、それよりも一人で物思いにふけることが好きな可愛らしい女性だ」。もちろん、ある文脈ではこれらの説明文も有効である、しかし、使いすぎることはよくない。彼女の性格は、彼女の行動や思考から読み取られるはずである。そもそも、性格というものはだれでも社交的であり内向的であるという相反する感情が入り乱れるのが常であると信じているため、常に社交的であるという人間は人間らしくない。同様に、愛についても常に一人の女性を愛している、疑う余地もない、何があっても愛しているという登場人物は作者の都合で作られた愛の化身であり、偽物のように見える。そのため、ほとんどの物語の人物は他価性を有している。一人称形式で物語が展開される場合、その心情や相手の行動の解釈には、著述する人物のその時の心情が写し出されるため、真実と異なっている可能性があることを考えなければならない。気持ちは他人に慮られてもそれが正しいとは限らない。そのため、一人称物語で、彼女は恥ずかしがったというように内面を表現することは厳密には正しくなく、彼女は恥ずかしいのだと主人公は考えたということが正しい。となると、彼女は本当に恥ずかしかったのかどうかは定かではない。そこで、彼女の行動に焦点を当てることを主とした作家も存在する。確か、ロスト・ジェネレーションだったと思う。ヘミングウェイとか。忠実に何が起きているかだけを記載する。そうすると、その行動の解釈は読者に委ねられる。描出力が重要となる。なかなか難しい問題だ。二人の男女が向かい合って座っている。男性は、片手にスマホを持ち、何やら画面を凝視している。彼女は身振り手振りを交え、男にやかましく何やら説明している。というように記載すると、なんとなく男は女の話に興味がないのではないかという推測がされる。男はつまらなさそうにというように心理を推測する言葉が間に挟まれることもあり、そうなると、つまらないのだというように読者は錯覚させられる。本当につまらないのかどうかは定かではない。
しかし、現実には、文章を作ることは大変難しく、内的描写のない表現はあまり見ない。どんどん文学も進歩していくと、人間の行動は、内面と結びついているように教育されていく。
しきりに髪をいじる。腕時計に目をやる。足を組み直す。下をむく。こういった表現はネガティブな印象を読者に与える。現実で考えると確かにこれらのことを行う人は、相手に対していい印象を持っていないのだろうと推測される。逆に、目を凝視する。時々、相槌をうつ。といった好意的行為も存在する。さて、しかし、学習が過ぎた彼らは騙すということはないのだろうか。つまらないけども楽しそうに振る舞う。興味はないけども興味があるように「それは面白いですね」と答える。美味しくない料理をゆっくりと味わって食べる。そういったことは存在しないのだろうか。いや、存在するように思う。そもそも、描写するある視点からは、その行為の読み違えも存在するだろうし、正しい表現が必ずしもされているとは限らない。ある視点からは、「しおらしく反省している」ように見える男子学生は、ある視点からは、「反省を全くせず、人の話を聞いていない」ようにも見えることが現実にはある。ある秘書はすでに精神的ストレスに打ちのめされているとしても、それが外に表出しないこともあるし、表出していても受け取り手によって認知されないこともある。物語ではどうあるべきか、曖昧模糊に矛盾を表現すると、読者は混乱し文章として成り立たないのだろうか。多点描出法を持ち込んで、同時に書くことはできるだろうか。
住野よるが、「かくしごと」の中で、登場人物五人程度の心情をある一つのシチュエーションで描出しており、それはただ、五人の心情が無理やり作られていたため、自分は酷評したが、その手法を用いて、他人の心情推理をすれば、いかに心情推理と本人の心情が矛盾しているか、行動と内面の不一致が生じているかを記載することができるのではないだろうか。と、同時に、いかに一致が起きているかも表現することができるようにも思う。さて、どのような塩梅で一致と不一致を織り成すか。人によって違う。それも、人と人によって違う。つまりは、興味がある人間や物事に対しては、知識がある背景に対しては、より似通った推理ができるのに対しては、無関心、知識不足の場合には、合致率は低下するように思う。これは、理にかなっているように思うけどもどうだろうか。ということは、登場人物のそれぞれにおける多点描出法を用いて、彼らの推理がいかに間違っているかを記載すれば、いかに男が女に騙され、おべっかやお世辞に一喜一憂してしまっているかも描くことができそうだ。真実がうやむやになり、本人ですらも自己の心理的状態と行動の乖離により混乱するかもしれない。
キーボードを叩く。それもすごく早い速度で。コーヒーカップはもうすでに空になっており、底に膜を張っていた薄い残りかすは既に気化している。ウェイトレスが来店時と同時に持ってきたお冷やを入れたコップは、机の上の小さな水たまりの上に乗っており、一口も口をつけられていないそれの表面には水滴がたくさん付いていたが、今は全て水たまりに吸収されていた。傍に置いてあるおしぼりの水分も、コーヒーの水分も、何もかもがそこに集約してしまったようだ。
と記載すると、なんだか、彼は、熱心に何やらキーボードで行なっていることがわかるような気がする。でも、それは、本当にそうかはわからないし、自分の内面はまったくそんなことはなく、好きな飲み物がないだけかもしれないし、わからない。
さてと、ドグラ・マグラは非常に有名なので、読んだことがある人も非常に多い。感想文も論評も多い。色々な受け取り方を皆がしている。自分もその一人である。本は、内容を作成した著者が最も重要なファクターである。疑う余地はない。だがしかし、装丁、絵、自体、字と字の空間、解説、読者の感想。それら全てによって、今のドグラ・マグラは存在している。特にネット社会のこのご時世。まとめサイトやらブログやらで他人の意見が先に入ることも多く、それらがドグラ・マグラとはなんであるかを規定することが多い。意見の不一致は、そういった情報源の差異を一因としている。もっと深くいうと、どういった状況で誰が読むか。それにより感想も異なる。高校生の時に読む本と、今読む本は内容が異なるのは、背景知識と心理の違いである。
あー、これは、絵画も同様である。好きな絵画というものは真には存在しない。もしも存在しているとしたら、それは知っている絵画の数が少ないか、同質の感情しか持ち合わせていないかである。後者の可能性は0なので、ある種の感情を持っている時しか絵画を想わないからということが答えになるように思う。絵画を考えた時には常に幸せな穏やかな時である、とすれば、フラゴナールやブーシェが好きかもしれない。なので、僕自身、ドグラ・マグラを読んだ後で、このエロチシズムで怪奇的な表紙を見ていると、シーレの絵を思うし、線のタッチはなんとなくビアズリーのように見えるしで、シーレの絵を考えるけども、同時に嫌悪感があって、むしろ可愛らしいスルバランやムリーニョのマリアを考えたりもする。
愛に飢えるか、愛は充足しているか。心は満たされているか。こういった自分の心的状態を察知するのに絵は都合がいいし、文章も同じ。もちろん、人と話すことでも簡単に自己評価ができることがある。
そろそろ、本題の心理遺伝だが、やはり、心理遺伝というテーマに自分としては無理がある。性質は遺伝しうる。Mental retardationに関与している遺伝子はすでに報告されているし、寛容、怒りっぽさ、思慮の欠如など、環境要因も大いに影響しているだろうが、遺伝的要因がないとは言わない。前頭葉だけに限局したタンパク質が存在していいだろうし、脳の構成因子であるニューロンやグリアの細分化はまだできていないけども、ある種の層構造などからは、位置情報含めなんらかの細胞群ごとの差異があってもおかしくない。それは、遺伝子によって型作られているので、あー、というと、遺伝子というのは便利な言葉で、環境要因ですら、本当は遺伝的要因というべきかもしれない。例えば、喫煙。これですら、喫煙に対する感受性の亢進か低下かどちらでも良いが、なんらかの違いがあるから、喫煙する人としない人ができるという結果でもいい。元々人間には嫌われやすい匂いがあるとしても、それを常に嗅ぐという行為によって、馴化が生じ、つまりは馴化もある種のタンパクの発現で嫌悪感を現象しているだけかもしれない。長期抑制が起こるという理論でもいい。伝わりが悪くなれば、馴化しそうである。そして、それをしているのはタンパク質であり、紛れもなく発端は遺伝子である。ということで、環境要因ですらもおおもとは遺伝子ですと言い出すと、なんでもありになるので、あるところからは遺伝子とは言わないということもできる。なかなかこれは難しい。
性質は遺伝する。それが狭義の環境要因ではないというにはどうすればいいか。本人へのアンケートではバイアスが多い。行動による評価は環境や教育が大いに影響する。孤児で評価するのが良さそうに思うけど、それも結局環境要因になりそうな・・・。答えが出ないので、心理遺伝にあえて異は言わない。でも、行動が同じになるというのはどうだろう。同じように妻を殺す、こんなことができるのかしら。ドグラ・マグラを読んでもここが理解できない。
我が家の子育て・成長記録と教育状況の公開!絵本5000冊+etc
その人のしてきたことを見れば、その人のしたい事がわかる。
と言うことは、自分のしてきたことを見つめれば、自分のしたい事がわかるのでは?
ブログで私は何をしたいのだろうか、といつも自問しているこまりちです。
ということで、
思い返しつつ、我が子の成長記録をつけてみることにしました。
まだまだ、不十分で更新していくと思いますが、
私・我が子の人となり?を見ていただければと思っています。
はじめに
このブログを読んでも、特に誰かが得をすると言うことはないかもしれませんが、
同じように幼児教育をされている方に「こんな人もいるんだ」と思ってもらえたらいいかなとも思いますので、
お時間の許す限りお付き合いください!
よろしくお願い申し上げます!
我が子の成長記録
我が家は、本物で学ぶをモットーとしています。
2ヶ月目(2023年11月)から児童館に通いだし、リトミックや体操をしたり、
4ヶ月目(2024年1月)から近所の水族館に月2回行くようになりました。この頃に図書館デビューし、以後、2週に1回最低10冊(多い時は30冊)借りて読むようになりました。
6ヶ月目(2024年3月)からは、休みの日は外に連れ出すようにし、ピクニックや花見、昆虫採集(パパ)、動物園などに行きだし、
10ヶ月目(2024年7月)には川遊びを始めて、エビやカニや魚を取ったりしました。里山公園にもよく行くようになり、キノコを取ったり鉱物を観察したりしました。
11ヶ月(2024年8月)から保育園に通い始め、友達との交流が盛んになりました。
1歳2ヶ月(2024年11月)には歩けるようになったので、公園や夕方のお散歩、朝のお散歩など1日に1時間くらいは歩いていました。朝は、基本的に歩いて保育園まで行きました(45分くらい)。
1歳3ヶ月(2024年12月)ごろに発語が見られ始め、1歳4ヶ月(2025年1月)には、語彙数が極端に増え、
1歳5ヶ月(2025年2月)には2語文が喋れるようになりました。
2024年12月から2025年1月は、新居計画のための住友林業との打ち合わせが多く、我が子の遊びの機会が減ってしまい、逆に絵本の数が増えました。
2025年2月に私の転勤が決まって新居計画が破綻したので、我が子の遊びの時間が増え、里山に行ったり雪を触ったりしました。
我が子の絵本記録
我が家は絵本を山ほど読んでいるかと言われると、
そうでもなく、
大体1日10冊前後読んでいる程度かと思います。
読んだ絵本の種類は600冊超え
読んだ回数は5000回くらいでしょうか(1歳5ヶ月まで)。
初めは、3歳までに10000冊(重複あり)という目標を見据えていて、
記録をつけ始めたのは、5ヶ月目の頃からでした。
それから、11ヶ月になるまで、6ヶ月記録をしました。
6ヶ月で2150冊 = 358冊/月 (12冊/日)でした。
これは、妻が熱心に読んでいたものを記録してくれていたもので、
私はあまり記録に興味がなかったので、
私が読んだ絵本については、記録していないものも多いです。
そもそも、新生児の時(目が見えない時)に絵本の読み聞かせは、
意味がないと思っていたので、
その頃は、「源氏物語」「学問のすすめ」「Handmaid's tale」を読みきかせしていました。
本格的に私が絵本の読みきかせを始めたのは、大体1歳ごろからだと思います。
1歳ごろ(自我が出てくる)までは、上の継続で「源氏物語」、「学問のすすめ」、「医学論文」といった大人むけの書物と、「世界名作全集」、「頭が良くなる366」、「はじめであう すうがくのえほん」などの読み聞かせがほとんどでした。
冊数は増えていませんが、私だけで1日30分は読み聞かせをしました。
家族としては、「頭が良くなる366」は毎日読み聞かせました。
我が子の好きな絵本(1歳5ヶ月)
1歳3ヶ月を過ぎた頃から、我が子の好みが出てきましたので、
読む本にあきらかに偏りが出てきました。
我が家の本棚には、300冊を超える絵本があるのですが(生まれた時は10冊以下!)、
リビングには、旬の絵本30冊程度と図書館本10-20冊を置くようにしていて、リビングの本棚の本を入れ替えて、色々読まそうと工夫しているのですが、それでも偏ります。
1歳5ヶ月の時点で好きな本は、
こどものとも0・1・2シリーズ
だるまさんシリーズ
きらきら
まるまるころころ
といった、オノマトペが多い絵本
すな文字シリーズ
いろいろバス
小学館図鑑 昆虫
といった、ものを名前を覚えやすい本
ハッピーバースディ たんじょうびのうたえほん
おにのパンツ
といった歌・音楽関係の本
2さいからはじめるえさがし KUMON
The goldfish got away
といった探す絵本
Good evening Mr. moon.
これはおそらく、読み方が楽しかった絵本
というようにバラエティに富んでいますが、300冊の中では限られたものです
(ただ、300冊の中には、1歳では集中が続かないものも多いので、仕方ないかと思っています)。
オノマトペが多い乳幼児向け絵本が楽しいようなので、こういった本を持ってくる頻度が高いです。
がたんごとん、もこもこ、ピョーン、くっついたなど。
これらの本は読むのが非常に楽であり、冊数を稼げます。
20秒で読み切る「きらきら」なんて、平気で10回以上を読みます(それでも数分)。
こういったので、読むと1日10冊平均は楽です。
でも、本質的な意味はそこではないのでは?と思っています。
我が家は、図鑑を寝る前の習慣で読みますが、時間は10分以上です。
正直これはきついです。
「さつまにしき、綺麗だねー。でもこれも蛾の仲間なんだよ。」
「蜻蛉。わかる、コオニヤンマのやごはちょっと太っちょだね。うちわやんまのしっぽはうちわみたいに膨らんでるよ。」
「てんとうむしは、敵から身を守る時に臭い液体を出すんだね。よくいるのがナナホシテントウやね。いろんな模様のがあるね、ベタリアテントウとか見てみたいね。」
「ガガンボ。足が長いね、でも人間には全然害がないんだってよ。」
飽きたらすぐ違うページに飛ぶので、私もちゃんと読んでいるわけではない。
開かれたページの気になるところを読んでいるだけ。疲れます笑。
それでも我が子は楽しそうにひたすらページをめくって「おおー!」と言うので続けているわけです。
興味があるのはいいことだしね。
こういった時間を費やすことに意味があると思っています。
語彙の形成はキャッチアップされますし、愛着形成も大事にしています。
我が家のカードたち
それから、カード類も種類があります。
絵合わせカード、数カード、英単語カード
これも、場合によっては寝る前に20分とか付き合います。
英単語カードは何枚あるか数えていませんが、500-700枚くらいありそうなので、終わりがありません。
ひたすら我が子が出したカードを私が読み、音を自動音声でチェックするを繰り返しています。
数カードも我が子が頭の上にカードを掲げて、私が数字を言います。
なにこれ?私の勉強なの?という感じですね笑
我が家のおうた時間
そして、おうた時間。
おうたは、くもんのうた200えほんとマザーグースの歌から歌うことが多いです。
パパやママが仕事をしている時には、クラシック(あまり知らないので、アレクサが勝手に再生している)を流すか、仕方なくEテレをつけるかしていますね。
パパの時はだいたいクラシック。
我が家のそれ以外の遊び
さらにさらに、絵本以外のおうち活動も多いです。
お絵描き、シールブック、リブロック、積み木、パズル。
お絵描きは、ペンかクレヨンで書く事が多いです。机の上にコピー用紙を置いて書かせていますが、勝手に書いています。おかげで絨毯も汚くなっています。
シール張りも一人でしていることが多いです。最近はもうシールタワーを作らなくなったので、嬉しいやら悲しいやら。
リブロック、積み木、パズルは、一緒にやる事が多いです。
リブロックは成長が見えやすいので、いいですね。
終わりに
こんな感じで、我が家は子どもと遊んで学ばせています。
成果があるのかないのか、
何を指標に効果判定したらいいのかもわかりませんが、
いい子に育ってほしいな!!とだけ思っています。
まだしていないけど、したいこととしては、職場体験・工場見学があります。
もう始めてもいい年だと私は、思っているのですが、まだ早いだろと言われそうで、気が引けています。
バスの運転席に座らせてもらえるとかするだけでいいんですけどね。
長々とした文章をここまでお読みくださいまして、大変ありがとうございます。
まだ何がしたいのかは見えてきませんが、絵本だけではなく、自然学習も取り入れた幼児教育が大事だと思っており、それを実践していると自負しています。
まだまだ絵本の冊数や自然学習の頻度が少ないと感じていますので、そういったところを充実させつつ、我が子がどのように成長していくか、見守ってくださいますと幸いです。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
心あったまる絵と文章。みんなが知ってるベストセラー。松谷みよ子あかちゃんの本
こんばんは! こまりち。です。 こちらのブログでは、子育て中の本や玩具、料理などを日々の備忘録も兼ねて皆さんに紹介しています。 本日、紹介したい絵本はこちらです
松谷みよ子あかちゃんの本
いない いない ばあ 瀬川康男 絵
おさじさん 東光寺啓 絵
子どもができました。絵本を買おうかと思って、本屋さんにいきます。
そこで、一番目につくのがこの松谷みよ子あかちゃんの本(シリーズ)だと思います。
まず、ベストセラーと書かれています。
そして、なんと、既視感があります。
それもそのはず、松谷みよ子あかちゃんの本は初版が1969年なんです!
すごすぎませんか?もう50年以上前から売れているんですよ?
私は、歴史的な文化遺産が好きなので、これは私にドストライクでした!
松谷みよ子さんについて
松谷みよ子さんは、1926年2月15日生まれで2015年2月28日に亡くなっています。
そこで、この記事を2月15日にアップすることにしました。
松谷さんは、童話集『貝になった子供で第1回児童文学者協会新人賞(1951年)を受賞、その後も多くの賞を受賞しています
絵本作家だけではなく、現代民俗学の人としても知られているようです。
- 『現代の民話 あなたも語り手、わたしも語り手』(2000年)
- 『異界からのサイン』(2004年)
- 『民話の世界』(2005年)
いない いない ばあ 瀬川康男 絵
ちょっと怖いと思わせるまつ毛の長いくまさんが表紙の本です
いないいないばあ!の絵本って結構あります。
偕成社から出ているいないいないばああそび
永岡書店からの飛び出す絵本いないいないばあ!
いろんな動物や生き物がいないいないばあをしてきます。
松谷みよ子本では、見開き右に文章「いないいない」が書いてあって、
左に動物が「いないいない」をしている絵が書いてあります
ページを開くと、右に「いないいない」をしていた動物が「ばあ!」をしており、左に大きく「ばあ」と書かれています。
動物さんは、全てその構図になっており、
読み聞かせもしやすく、
子どもの反応もいいです!
残念なことに最後ののんちゃんは見開き左に「いないいない」右に「ばあ」をしています。
私は最後は、ちょっとテンション低めに「今度はのんちゃんがいないいないばあ」とスラーっと読み切ってしまいます。
最後は批判みたいになってしまいましたが、
歴史ある昔から親しまれてきた「いないいないばあ」
ぜひ、手にとってみてくださいね!!
いないいないばあの歴史
記事を書いている時に、いないいないばあの歴史について気になったので、例のごとく、Wikipedia, Uncyclopediaで調べてみました
いないいないばあ歴史(Uncyclopedia)
正しいかは知りませんが、この記事によると、以下の2つの説があるそうです
「いない、いないと捜していたら、大便となって見つかった」が元
"「いないいないばあ」の由来については古今東西様々な説があるが、最も有力な説は検閲により意図的に抑えられている。
それはすなわち、「ばあ」とは古語・方言の「ばば」(原義は「便」のこと)が転じたものであり、
つまり「いないいないばあ」とは「いない、いないと捜していたら、大便となって見つかった」というところから来ているという 説である。"
オホオカミの隠語説
オホオカミの名前を出せないから、「いないいないばあ様」と呼んで正体を隠そう
"中国地方の山地を中心に広まっているある伝承との関連性が指摘されている。それは、大まかに言えば「2年~数年に一度、山からオホオカミ(大雄神、狼または巨大な野犬の鬼神)が降りてきて、人間のいけにえを要求する。人間が黙っていると、知らない間に子供1人がいけにえとしてさらわれ、その後しばらくは人々の幸福が約束される」というものである。
これらの伝承は明治以降、迷信として排斥されたが、それ以後も伝承を信じる人々や村々は各地に存在し、大雄神をひそかに祀ってきた。しかしオホオカミの名前を出せば政府による監視・弾圧の対象となるため、あえて「いないいないばあ様」と呼んでその正体を隠すことを行った。その後も信仰は受け継がれたが高度成長期以降は次第に廃れ、現在では山間部の集落にその痕跡が伝わるのみ、とされる。だが実際には、むしろ大雄神信仰の伝わる地域間に緩やかなネットワークが形成され、その活動は一般社会から見えにくくなった分、却って強固なものとなったと主張する宗教学者もいる。"
おさじさん 東光寺啓 絵
こちらは、激かわです!
おさじさんがお山から降りていると、
ウサギさんがたまごいりのお粥を食べています
一人で食べれるもん!とウサギさん
あっちっち!になり、
おさじさんが手伝ってくれる
というストーリーです
おさじさんもウサギさんも可愛い絵です
なんだか、おさじさんってアンパンマンみたいじゃないですか?
パトロールしてたら困ってる人がいて、助けてくれるみたいな
今はもうおさじなんて呼ばずスプーンなんでしょうけど。
この精神は忘れずにいたいですね
そのほかの松谷みよ子本
松谷みよ子本は、その他にも何種類かあります。
我が家は、9巻セットを買いました。
何度も何度も読みました。
でも、バラ売りや3巻セットもありますので、ぜひご購入してくださいね
松谷みよ子さん生誕の日ですので、読んだことがないという方がいらっしゃいましたら、
ぜひ読んでみてくださるといいなと思います。












